「邪馬壹國は四国剣山の麓」〜卑彌呼は阿波の霊峰に〜


日本国の成り立ちにおいて基準点となる邪馬壹國(ヤマトコク)の比定地について
その場所は四国であり、卑彌呼はその霊峰にいたのではないかと思うようになりました。

きっかけは「阿南市に弥生後期の大型辰砂坑道発見」という去年の新聞記事でした。
辰砂(しんしゃ)とは水銀朱とも呼ばれる赤い稀少鉱物で、顔料としては真紅であり
蒸留すると水銀が得られます。水銀は始皇帝が徐福に求めた不老長寿の仙薬ではないか?
空海が高野山を開山したきっかけではないか?など、私にとって最重要ファクターでした。

これはビッグニュースです。ついに霧がかかってた日本古代史がクリアになると、
魏志倭人伝を改めて読み返してみました。
するとこれまで謎だった部分をするすると読み解くことができたのです。
さらに関連する文献や地質・地形・地名から符合作業をしていくと
驚くべきことが見えてきました。

邪馬台国の比定地論争の歴史は江戸時代かそれより前からと非常に長く
主に「北九州説」と「畿内説」で競い合ってました。
双方に膨大な考古的発掘品があり、少し見方を変えるだけでどちらも十分な説得力がありました。
両者の意見が分かれる部分にはある種の魅力があります。ひとつは(のちに詳しく説明しますが)
航海の中間地点において”何里”から”何日”という距離に関する記述の変化の部分でした。

私は紀元前から中国に存在していた ”周髀算経の一寸千里法”という優れた測量法(8尺の棒を立て、その太陽の影と北極星周辺の星から割り出す古代天文測量法)を知り、

直線で到達できる場合は正確に計測し《何里》と記す
直線で到達できないが場合は計測せず要した日数を《何日》と記す

と読めば良いと思い立ちました。

前置きが長くなってしまいましたが、今回は邪馬壹國を読み解く上で導入となる
魏志倭人伝の航行工程の部分を読んでいきたいと思います。
地図に番号を書き込みましたので照らし合わせながら見てみてください。

[到其北岸狗邪韓國,七千餘里]①〜②
(→其の北、狗邪韓國の岸に到るに七千餘(余)里

[始度一海,千餘里至尊馬國]②〜③
(→始めて一海を度り千餘(余)里、尊馬國(対馬)に至る

[又南渡一海千餘里吊曰瀚海至一大國]③〜④
(→又南へ一海千余里を渡る、瀚海と曰う吊から一大国(壱岐)に至る

[又渡一海千餘里至末盧國]④〜⑤
(→又一つ海を渡るところ千余里。末蘆国(松浦市)に至る

[東南陸行五百里到伊都國]⑤〜⑥
(→東南に陸行五百里、伊都国(糸島市)に到る

[東南至奴國百里]⑥〜⑦
(→東南百里奴国に至る

[東行至不彌國百里]⑦〜⑧
(→東行百里不弥国に至る

「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人

(※ここからが解釈の分かれ目。距離の表記が航行の日数に変わる部分です。)

[南至投馬國水行二十日]⑧〜⑨
南投馬国(宇和島南部愛南町)に至るに水行二十日。

ちなみに畿内説ではこの”南”という記述は”東”の誤りと90度変えて読み進めています。
北九州説の解釈で”水行20日”は関門海峡を通らないようです。
私は関門海峡から、陸づたいを南へ国東半島を周り
大分から豊後水道を通って愛媛に渡り延べ20日の航海

愛媛県の南端、投馬国の港に着いたと読み取りました。

[南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月]⑨〜邪馬壹國
南、邪馬壹國(ヤマト)国、水行十日または陸行一月女王之都す所に至る

そして土佐湾沿いを通って陸づたいに反時計回りに進み、ようやく
邪馬壹國の港、阿南市南部の橘湾に到着。そこから中心部へ船で移動那珂川河口を通過し
徳島市の清流吉野川の当時の海岸線に当たる気延山の麓に上陸。
ここから鮎喰川を谷川に沿って登って行きます。
そして剣山の麓である神山町あたりに卑彌呼に従える1000人が暮らしていた。
卑彌呼は木屋平から夫婦池(人工池と思われる)あたりに住み
時に剣山に登り天気を見極め、鬼道も使って國を治めていた
と考えています。

最後に行程のまとめとして

《自郡至女王國萬二千餘里

という
①帯方郡治から邪馬壹國までの距離の記述がありますが
一寸千里法により一里=76mなので
①帯方郡治(平壌南部 沙里院 38°30’14.0″N 125°45’32.0″E)から
阿波の国の最高峰として剣山山頂までGoogleEarthで計測しますと
・・・912余Km
 となり
これが剣山山頂とわずか3キロの誤差でピッタリ一致しました。

邪馬壹國の中心が阿波の霊峰にあるとわかると
古事記や日本書紀の神話部分の理解も進み非常に驚いています。
これから何度かに渡って丁寧に説明していきたいと思います。

令和元年の発見から新たな日本を知るた旅がはじまりました。
これが大きな変化の始まりかもしれません。それでは続きを是非お楽しみに。

<補足:狗奴国について>

最後に南にあるという最重要な狗奴国について。
狗奴国は卑彌弓呼(ひみここ)といった男子の王からもわかるように
卑彌呼が納める前の邪馬壹國との関係が重要だと思います。
その後戦争状態になるということと、朝貢がストップすることを考えると
両国には決定的な政策の違いがあったと思われます。

つまり狗奴国と邪馬壹國は中国王朝に対する考えで対立しており
狗奴国は魏に朝貢し冊封体制に入ることを拒んだのだと思います。

狗奴国がなぜ魏に朝貢することに反対するのか?
狗奴国は中国王朝に詳しいことが伺えますが
ここは三国志をよく読まないと理解できません。

いずれにせよ狗奴国が形成される生い立ちを、朝鮮半島経由の鉄器文化や
弥生文化発生の経緯と合わせて考察する必要があります。

そしてこれらのことが邪馬台国論争が長引いいている原因で
邪馬壹國の原型は九州で作られ、ある時点でから四国にで作ったのだと考えています。
卑彌呼の邪馬台国と帯方郡を結んでくれるのが
伊都國ですから卑彌呼は元々は伊都國にいて
古代九州王朝で伊都國と狗奴国の南北戦争があったのかもしれません。
もちろん狗奴国は球磨國で熊襲の中心地だと思っています。
邪馬台国論争は弥生時代を末期から遡ることを余儀なくされています。

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紫鶴

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